台湾資料

展示パネル  -ラウンジ- 
 
奮起湖駅の弁当の変遷にみる「過去」の利用
阿里山の 「奮起湖大飯店」店主で、
便當ブームの仕掛け人である
オーナーの林金坤氏


大手コンビニエンス・ストア・チェーンと提携して売り出された「奮起湖便當」(六十元=約二百四十円)
台湾原住民が日本統治期の資料を用いて祭りや儀礼を復活させることは、自分たちの被植民者・被調査者であった過去を、資源として現代に利用する営為といえましょう。「過去」とは、ただ歴史の一部を構成するだけではなく、時には、民族としての誇りを取り戻したり、現在の生活をよりよくしたりするために、たいへん重要なものです。そして、そこで利用される「過去」は、写真や文字で残された資料には限られません。
その例の一つを、阿里山鉄道の奮起湖駅で売られる弁当の変遷にみることができます。
台湾の中部山地に位置する阿里山は、二〇世紀初頭から日本によって林業開発が始められ、林業の衰退後には観光地として名が知れるようになった地域です。開発当初の阿里山の森林には、樹齢何百年という良質なヒノキの大木が群生していました。台湾総督府はそこを直轄経営し、木材運搬用の鉄道を敷設し、林業に従事する職人を集めました。鉄道の駅の周りには集落ができ、商売をする人も現れました。阿里山から切り出されたヒノキは日本へと運ばれ、日本各地の神社の大鳥居を建てるのにも重宝されました。
阿里山鉄道沿線で最も栄えたのは、奮起湖という駅です。ここは、スイッチバック方式で運転する鉄道の上下線がすれ違う地点で、当時、嘉義の街から阿里山へと向かう列車は、お昼前にちょうどここにしばらく停車をしました。街からの乗客は、この駅で待ち合わせの時間に昼食をとるのが常で、呼び売りもいたといいます。
戦後に、阿里山は観光地としてさらに栄え、多くの人が鉄道を利用するようになり、奮起湖駅のホームには、食堂を開業して、そばを売る人が現れました。やがてそれは弁当販売へと切り替えられ、奮起湖の弁当は、たいへん有名になります。客は列車の待ち合わせの時間に弁当を食べ、容器は返却するという仕組みでした。この店主はやがて、嘉義の駅でも、乗客が列車内で食べるための弁当を売り出し、これには、薄い木の板で作った使い捨ての箱が使われました。
一九八〇年に嘉義の街から阿里山へと通じる大きな道路が開通し、阿里山鉄道の利用客は激減しました。弁当販売も打撃を受け、最盛期には一日約二,〇〇〇食だった売り上げは二〇食にまで落ち込みました。その後、弁当屋の店主は経営の転向をし、一九九一年に奮起湖でホテルを開業します。そこで、かつて名の知られた奮起湖の弁当を観光客に食べさせるようになりました。以前と同じアルミの弁当箱を使い、その場で食べさせて容器は再利用するという方式で、人びとに郷愁の念を呼び起こさせることに成功、今では一日平均二〇〇個の売り上げだといいます。
さらに店主は近年になって、阿里山の特産品だったヒノキを使った弁当箱を製造し、観光土産として販売するようになりました。日本時代に伐採し尽くされて今ではわずかになったものの、ヒノキは、現在でも阿里山の代名詞として知られているからです。
そして、数年前から大手のコンビニエンス・ストア・チェーンと提携して、全国各地で奮起湖と同じ内容の弁当が売られるようになりました。これは紙の箱に入れられたものです。発売当初は話題を博し、全国で一日平均二〇万個の売り上げがあったといいます。
こうして、奮起湖の弁当は、過去のさまざまなものを利用しながら、発展・進化を続けてきました。幾種類もの弁当箱からその一端をうかがい知ることができます。




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