台湾資料
  小川・浅井について
小川尚義
小川尚義(一八六九−一九四七)

一八九六年に東京文科大学博言学科を卒業。 一八九六年十月に台湾総督府学務部編集事務嘱託に任命され、当初中国語の方言の一種である福建系台湾語の研究を行いました。当時、台湾では台湾人に日本語を教 えるための教科書や日台辞典の編纂が急務とされている時期であったためです。 彼の台湾語研究の成果は、台湾総督府編一九〇七年『日台大辞典』、一九三八年『新訂日 台大辞典』、『台日大辞典』(上:一九三一年、下:一九三二年)となって公刊されています。台湾の原住民言語についての学問的研究も、小川が開拓したものです。 『パイワン語集』(一九三〇年) 『アタヤル語集』(アタヤルとはタイヤルのこと、 一九三一年)『アミ語集』(一九三三年)などは、台湾総督府が編者となっていますが、 実際には小川が真の著者であるといえます。ただ残念なことに、小川の著作は、 日本語でのみ発表されたため、それらが世界的に知られるようになり、オーストロネシア言語の研究において台湾の諸言語が重視されるようになったのは、彼の死後十数年たってからのことです。 一九二八年に台北帝国大学が設立されると、言語学教室教授に着任し、 一九三〇年には 台北帝大文政学部教授に就任しました。一九三〇年、台湾総督上山満之進が退職にあたり、台北帝大土俗人種学教室及び言語学教室に高砂研究費として多額の寄贈をしましたが、 言語学教室では、小川尚義教授が浅井恵倫に協力を求め、原住民言語について、網羅的で詳細な調査を行ないました。 小川は、アタヤル、サイシャット、パイワン、プユマ、ルカイ(大南社、タラマカウ社)、アミの調査を、浅井はセデック、ブヌン、ツォウ、カナカナブ、サアロア、ルカイ(下三社)、ヤミの調査を担当しました。両氏は、調査の結果を『原語による台湾高砂族伝説集』 (台北帝国大学言語学研究室編 一九三五刀江書院)として出版し、一九三六年に小川名義により恩賜賞を授与されました。それまで断片的な単語程度しか判らなかった 高砂諸語の全貌が明らかにされた点で、同書は高砂諸語研究史上の一大金字塔といえます。一九三六年、定年をもって台北帝大を辞し、故郷松山に引退。一九四七年没。
浅井恵倫
浅井恵倫(一八九五-一九六九)

一八九五年石川県小松市の浄土真宗大谷派妙永寺住職浅井恵定の長男として出生。 東京帝国大学文科大学言語学科を一九一八年に卒業しました。一九二三年から台湾におい て言語学的な現地調査をはじめ、 台湾紅頭嶼(現、蘭嶼)でヤミ語の調査を行 いました。一九三六年には"A study of the Yami language, an Indonesian language spoken on Botel Tobago island"(『ヤミ語の研究』)をライデン大学 に提出し、文学哲学博士号を取得しました。更に、一九二七年七-八月にはセデック語 調査(霧社蕃ホーゴー社、パーラン社)を行い、一九三四 "Some observations on the Sedik language of Formosa", 『東洋学叢編』第一冊 pp.一-八十四.を発表しています。一九三〇年からは、小川とともに上山資金による原住民言語調査を行い、調査の結果を『原語による台湾高砂族伝説集』 (台北帝国大学言語学研究室編 一九三五刀江書院)として出版しました。 浅井博士は、一九三六年五月、定年退職により帰郷した小川尚義教授を継いで、台北帝国大学文政学部言語学教室助教授に就任しました。一九三六年七月−一九三七年一月および一九三八年一月−三月には、平埔族諸言語(ケタガラン、トルビアワン、バブサ、タオカス、ホアニヤ、パポラ等)を調査しました。これらの調査結果は生前公表されることはありませんでしたが、AA研に寄贈された資料の中に浅井及び小川によるフィールドノートが発見されました。 この他、一九四〇年十二月より二ヶ月間、早坂一郎を団長とする海南島調査団に参加し、黎族についての調査を行っています。一九四号年の敗戦後は、しばらく中華民国政府に留用されましたが、一九四七年に帰国。その後は、アメリカ駐留軍CIE顧問に、また一九四九年には、国立国語研究所研究員となり、一九五〇年には、金沢大学教授に就任しました。戦後はメコン流域の調査を行っています。1958年に、南山大学教授に就任した後は、一九六四年八月−六五年一月に南山大学東ニューギニア調査団の一員として、東ニューギニア高山地帯のパプア族の言語調査を行いました。一九六九年、直腸癌で逝去。 浅井教授は、この他、日本言語学会評議員、日本民族学会評議員、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所の運営委員を歴任しました。