台湾資料


展示パネル  -資料展示室- 
 
昭和十一(一九三六)年春に退官してからは、 松山に帰郷、出渕町で余生を過ごした。[…] 帰郷後、髭がぼうぼうで、腰が曲がりながらも、「俺が(一生だけでなく)何生生きても終わらない。奥が深い。忙しい」と寸分の時間も惜しんでは、 台湾語と高砂族諸語の研究に没頭した。[…] 昭和二〇(一九四五)年七月二六日、松山空襲で 資料の大半が焼失したが、研究者によると、 僅かに残ったノートに昭和二〇年八月として「梅津寺疎開ヨリ二十五日、松山全焼等、患難ノ時全力ヲ捧ケテ調査シタモノ十月郡中へ行テ後マテ続ク八月十五日ノ畏キ話ヲ聞キツゝ 浄書シタケレドモソノ時間ガ惜シ遺憾」とあるように、終戦の「玉音放送」を聞きつつも、研究に余念がなかったようだ。
酒井亨「小川尚義-ある偉大な台湾語学者と故郷・松山」『ふぉるもさ』5:2-8, 1994年より

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