台湾資料

展示パネル  -ラウンジ- 
 
記憶を呼び起こす
台湾の人々は、日本統治時代、しばしば自らの「過去」が否定されるという経験をしてきました。総督府は、原住民だけではなく、漢民族についても、伝統的な習慣や世界観の中に、前近代的なものが多く含まれているとみなし、それらを捨てさせ、日本的な習慣や観念を植え付けようとしました。戦後の中華民国政府も、基本的には同様でした。更に、戦後は、日本時代の遺産が、民国政府によって否定的に評価されたことも事実です。しかし、一九九〇年代に入り、政治の民主化が進む中で、こうした「過去」への視線も徐々に変わろうとしています。自分たちの過去の習慣や歴史、日本時代の遺物も、今の自分たちの社会や文化を構成する一部として、利用できるものは利用する、という見方が生まれてきています。
原住民、特に平埔族の中には、かつては、漢民族との接触によって、自らの言語や文化を失っていった民族が多かったのは事実です。しかし、現在では、原住民身分を持たない人々の中に、平埔族としてのアイデンティティを回復しようとしつつある人々も増えてきています。ただ、彼らの問題は、自らの祖先が平埔の一支であったことを、伝承のレベルでは知っていても、それに見合う実態をほとんど記憶していない場合が多い、ということなのです。また、長年にわたって、過去の習慣から離れ、言語を話さなくなったために、それらを次世代に受け継いでいくことが難しくなりつつある場合も少なくありません。そこで、そのような「記憶を呼び起こす」あるいは「記憶を新たに身に付ける」ために、過去の研究の中に残された記録が利用されるようにもなってきています。
右下の写真は、二〇〇四年の年末に、埔里郊外のホアニヤの子孫が暮らす地区で行われた祖霊を祀る儀礼です。彼らは、長い漢化の歴史の中で、独自の言語や文化を失いました。この儀礼は最近復活したものですが、その際、利用されたのが、伊能嘉矩の「臺灣の平埔蕃中に行はるゝ祭祖の儀式」 (一九〇二年)という論文でした。彼らは、地域の知識人の手によって翻訳された伊能の論文に基づいて、儀礼を復活させたのです。

過去を利用する
【左】「ホアニヤ族の開拓についての碑」 ホアニヤ族は清の道光年間に平野部から、埔里に移住してきたこと、毎年七月二〇日と一月十五日に祭りをしてきたこと、漢化の影響を受けて一〇〇年ほどの間に、独自の文化を失ってきたこと、しかし、祖先の事績を忘れないために碑を建てたことなどが記されている。


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