台湾資料

展示パネル  -資料展示室- 
 







  日本統治時代、台湾原住民社会は大きな変貌を遂げました。台湾総督府は、 タイヤル、ブヌン、パイワンなど日本に抵抗する諸民族を武力で鎮圧し、「帰順」させた村々では、首狩や村同士の武力闘争を禁止し、銃の所持も 厳しく制限しました。しかし、原住民からの日本への抵抗は、なかなか 押さえることができませんでした。一九三〇年の有名な霧社事件では、 武装蜂起したタイヤルの一支であるセデックの人々が、日本人一三〇人余り を殺害し、日本側から鎮圧されました。霧社地区で浅井恵倫が調査を行っ たのは、その前の一九二七年、小川尚義が浅井による調査のチェックの ために霧社を訪れたのが、霧社事件の前年の一九二九年でした。
 
南部の原住民男性。中央は警察関係者と思われる。
原住民の社会は日本が派遣した警察権力によって支配されました。同化の手段としての日本語教育も警官の重要な任務でした。原住民は「蕃童教育所」で『蕃人読本』などを使って日本語を教育されたのです。日本語教育を受けた優秀な生徒の中には、「警丁」に採用され、日本人と原住民社会との間の仲介役を務めた人もいます。また、和服の着用が奨励されたり、政策的に日本人の警官と現地女性とを結婚させる場合も見られました。日本は、また伝統的な権力者を「頭目」や「勢力者」として認めて、彼らの伝統的な社会秩序を利用したのです。さらに、改姓名制度が施行されると、これまでのカタカナ表記による原住民名を日本風の姓名に変えることが奨励されるようになりました。
和服を着たタイヤルの女性。首には麻糸を作るための苧麻を下げている。


花岡が一九三〇年一月三十一日付けで浅井に宛てた手紙。浅井に花岡が結婚を報告していることなどから、
二人の信頼関係が読みとれる。
出典:張炎憲 2003「花岡一郎写給浅井恵倫的信」『台湾風物』五十三巻第三期


浅井のインフォーマント(情報提供者)の中には、日本語が堪能で、巡査をつとめたダッキス・ノービン(日本名 花岡一郎)もいました。彼は、セデックのホーゴー社出身でしたが、この村が霧社事件で蜂起した側に加わっていたため、現地の人と日本人との狭間で命を絶たざるを得ないという悲劇の運命をたどりました。また、一九三二年の浅井のツォウ語調査で案内役を務めたのは、ウォグ・ヤタウユンガナ(日本名 矢多一生、漢名 高一生)だと思われます。彼は当時のツォウの指導的役割を担い、多くの研究者に協力しましたが、戦後の政治事件後に突然逮捕され、処刑されました。













   
浅井やネフスキーのツォウ語調査に協力したウォグ・ヤタウユンガナ (矢多一生)   プユマの警官で、浅井のヤミ語調査に貢献したプンディック (後藤武夫)とヤミの少女たち   タイヤルの家族。夫のビユ・ワリスは、警丁。彼は、後に高砂義勇隊に参加したが、生きて再び故郷に帰ることはなかった。
太平洋戦争がはじまると、原住民青年は皇国民の証は兵隊に行って戦うことであると教えられ、特別志願兵や高砂義勇隊に参加するように仕向けられました。彼らの多くは、その後、再び生きて故郷の地を踏むことはありませんでした。

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