台湾資料

展示パネル  -資料展示室- 
 
台湾原住民社会の変容

消失した文化
台湾原住民は、東南アジアから太平洋、マダガスカル島の一部に広がるオーストロネシア語族に属する諸民族の中で、最も北の地域に住んでいます。伝統的には、アワやイモなどの焼畑耕作や、狩猟といった生業形態を持ち、万物に霊魂が宿ると考えるアニミズム的な宗教観念、かつて首狩などを行っていたように武勇を重んじ、規律を尊ぶ社会気風を持っていたといわれています。彼らの祖先が、いつ頃どこからどのような経路で台湾にやってきたかは諸説がありますが、何度かの民族移動によって台湾に定着するようになったといえるでしょう。しかし、台湾には主に十七世紀前半頃から新たな外来者がやってくるようになり、彼らの社会は外から持ち込まれた文化や社会制度などによって大きな変化を蒙ることになりました。スペイン (十七世紀前半、台湾の北部)、オランダ (十七世紀中

葉)、鄭成功及びその子と孫の時代 (十七世紀後半)、清朝 (十七世紀後半から一八九五年)、日本 (一八九五年から一九四五年)、中華民国政府 (一九四五年以降)と、さまざまな統治者が台湾を支配しましたが、その間に原住民は統治者及び十七世紀以降大量に入植した漢人によって、土地を奪われたり、同化政策の中で独自の文化や言語を徐々に失ったりしてきました。

言語や民族文化が消失するということは、それを担ってきた人々にとっての損失になるだけではなく、人間社会の多様性が奪われるという意味でも大きな痛手です。現在「原住民族」として認定されている諸民族の場合には、固有の文化や言語が比較的保持されていますが、小川尚義、浅井恵倫らが研究を行った平埔族のなかには、たとえば、ファボランやパゼッへのように、固有の言語や文化が消失したり、消滅の危機に瀕してしまったりしたものも少なくありません。


資料から甦った文化

シラヤの儀礼的マラソン (一九三八年)


小川や浅井の残した資料の持つ高い価値は、こうした消滅した、あるいは危機的な状況にある言語や文化についての情報を、私たちに提供してくれていることにあります。今日では、小川や浅井によるものを含め、過去に記録された文書や画像が、単に研究の素材となっているだけではなく、現地の人々によって失われた文化の再興に利用されるようにもなりつつあります。


日本時代の研究をもとによみがえった
ホアニヤの祖先祭における儀礼的マラソン (二〇〇四年)