台湾資料

浅井恵倫フィルモグラフィ   
 
浅井恵倫フィルモグラフィー
浅井恵倫の所蔵する動画フィルムの多くは、浅井が台湾で調査の際に撮影したと思われる民族誌的な映像です。けれど、なかには撮影者不明のフィルムもあります。それらは、民族誌的映像とは一風異なり、植民地下の台湾原住民に対する統治者のまなざしがいっそう色濃く反映されたものです。このほか日本での浅井一家の姿が収められたフィルムもあります。

Ⅰ:浅井が撮影したと思われる民族誌的映像
























Ⅰ:浅井が撮影したと思われる民族誌的映像
台南頭社のシラヤの祭り1 分類番号:Q-7 上映時間:約3分20秒
1938年12月、浅井が台南、頭社のシラヤの村に調査に訪れた際に撮影された映像です。旧暦10月14、15日に頭社でおこなわれるシラヤの壺に宿るとされる神格を祀る「公廨」での祭儀の模様が収められています。画面には村人が供物を携えて公廨に集まる模様、公廨前に祀られた神に酒を供える姿、公廨内部の様子が映し出されます。続いて、公廨の前で、黒衣の女性が生きた豚の口に酒を注ぎ込んで飲ませ、生贄を清める儀礼をおこなう様子、その後に、その豚を屠り、血を取り、火で毛を焼く様子が映し出されています。この豚はその後に飾り付けをされて公廨前に陳列されます。豚とその血は神に捧げられるものです。画面ではそれに引き続き、公廨前で少年少女によって「牽曲」といわれる神聖な歌が歌い踊られています。牽曲の歌舞は村の少女によってなされることが理想とされますが、少女の人数が足りない場合には、少年も交えておこなわれるそうです。

台南頭社のシラヤの祭り2 分類番号:Q-2 上映時間:約3分50秒
「台南頭社のシラヤの祭り1」と同じく、1938年12月、台南、頭社のシラヤの祭儀を撮影した映像で、1の続きと考えられます。公廨の前で村人が供物を並べる様子、牽曲と思われる踊りの輪の足元が大写しにされています。続いて、公廨の内側と公廨の前広場で、シャーマンである白衣の女性に神が憑依する様子が収められています。白衣の女性の隣にいる黒衣の女性は介添え役で、憑依したり正気に戻ったりするシャーマンを介助しながら儀礼を進行させます。その憑依するシャーマンを囲み、少年少女が牽曲を歌い踊っています。画面最後の畑地の中に立つ白衣の女性も、前画面と同じシャーマンだと思われますが、この場面が何をしているのかは不明です。

ガニ社に移住したタイヴォアンの祭り分類番号:Q-4 上映時間:約1分20秒
映像の冒頭に、「シライヤ系平埔蕃/小林の公廨/(Ⅷ1931)/ガニ移民の踊り/Ⅷ1932」というテロップが入れられています。建物前の広場で壺を囲んで、人びとが踊っている映像ですが、踊っているのは平埔族シラヤの一系統とされるタイヴォアンの人びと、その後ろにある建物はシラヤの人びとが信仰する神の祀られる「公廨」と考えられます。シラヤの信仰の特徴である壺に宿る神を祀り、その壺を囲んで歌い踊っている場面です。撮影地点は、テロップから判断して、高雄に居住するツォウの一派、サアロアの村が位置するガニ社(現在の高雄県桃源郷雁爾)だと思われます。浅井がサアロア語の調査に訪れた1931年と1932年に、この映像が撮影されたのでしょう。人類学者の清水純氏によれば、日本統治期にその地域には、原住民統治のため当局の命令で近隣の村から平埔族の人びとが移住させられて住んでいたということです。このフィルムに収められたのは、小林という村落から移り住んだタイヴォアンの人びとであり、彼らが移住先でおこなった祭りの様子を、浅井が撮影したのだと考えられます。

パゼッヘと思われる平埔族の踊り分類番号:P-8 上映時間:約3分30秒
広場で多くの観衆を前に、人びとが白いタオルを手に取り合い、弧を描いて踊っています。踊りには加わらずに銅鑼を叩く人の姿も見えます。踊る人びとの前方に位置する女性3人の服装に特徴があり、なかでも真ん中の女性の上着は、衣幅がたいへんに広く、細かな刺繍が施されているのが見えます。この刺繍の上着の特徴から、この人びとが台湾の中部、埔里に居住する平埔族パゼッヘではないかと推測されます。撮影年月は不明です。

カバランまたはトロビアワンのインフォーマント
分類番号:Q-7 上映時間:約3分20秒
この映像には、年輩の女性が、1人で語り、歌い、踊り、何かの仕草を見せている画面が映し出されています。女性は、平埔族のカバランまたはトロビアワンの人だと考えられ、おそらく浅井の言語学調査のインフォーマントです。人類学者の清水純氏によれば、手に何か小さなものを持って説明しているのは、カバランに伝わる「スブディ」といわれる占いの説明をしているということです。撮影年月や撮影地点は不明ですが、浅井の言語学調査の様子を伝えるものとして興味深い資料です。


タイヤルまたはセデックの村の様子分類番号:Q-7 上映時間:約3分20秒
この映像の撮影年月は1938年6月、撮影地点は、山地のタイヤルまたはセデックの村と考えられます。山岳風景、村のさまざまな様子が映し出されています。画面中には、歩きながら苧麻の繊維を手にする女性の姿や、座って機織りをする女性の様子が登場しますが、タイヤルやセデックの女性にとって、糸を紡ぎ、機を織って一枚の布を完成させることは、女性としての成人の証と見なされていました。それらの仕事が当時は日常的になされていて、生活にとけ込んだものであったことをうかがい知ることができます。機織りの女性が身につける装飾具も現在では非常に貴重なものです。また、この後の画面では浴衣を着た女性や子どもの姿が見え、女性たちの輪舞の様子が収められています。輪になって踊る若い女性たちの衣装には、花模様などがあしらわれた木綿布が使われています。これらの服装からは、日本による統治の影響も垣間見られます。額に大きなイレズミのある女性も登場します。タイヤルやセデックの男女は、成人すると顔面にイレズミを入れる習わしがありました。これは日本統治期に禁じられ、その後の世代には施されなくなっていったものです。さらに映像には、女性用の衣装を着ておどける浅井自身が登場します。快活に笑って煙草を吸う浅井の姿からは、調査地でのくつろいだ一面を見ることもできます。これに続いて、若い男女が家屋内から外へと出てくる様子を映した場面があります。この若い男性たちの着用する衣服は、前合わせで腰をひもで留めた日本風の作りのものです。彼らは直立の姿勢でカメラの前に立ったり、煙草を吸ったりしています。この人たちと、この映像の最後に映し出された路上に座り物言わぬ男性たちとは、服装も姿勢もカメラに向けられた表情も、とても大きく異なっていることが印象的です。日本統治期の台湾原住民の村には、植民地統治に適応して日本語を操り日本人に与えられた服を着こなして仕事の機会などを得た人もいる一方で、日本という統治者と積極的には関わらなかった人びとも大勢いたのであろうことを、この映像資料は物語っています。


タイヤルまたはセデックの機織り分類番号:P-4 上映時間:約3分30秒
この映像の撮影年月、撮影地点は不明です。被写体はタイヤルまたはセデックの女性で、糸紡ぎから始まり、縦糸張り、機織り、そして機のアップが収められています。タイヤルやセデックの機織り技術の質の高さは、台湾原住民の中でも際立っています。糸紡ぎから機織りの様子までをこの映像では丹念に撮影していて、浅井がそこに民族誌的資料の価値を見いだし、詳細な記録を残そうとしていたことがうかがえます。


合歓山登山分類番号:P-5 上映時間:約3分30秒
1938年6月、台湾の中央山脈北側に位置する合歓山に浅井が登山した時の映像です。浅井の他に2人の日本人、そしてタイヤルかセデックの男性らしき2人も同行しています。山岳風景の他に、登山の様子、山頂での記念撮影の様子も映し出されています。快活な浅井の様子が印象的です。


台北、廟の祭り1分類番号:P-1 上映時間:約3分30秒
撮影年代は不明ですが、撮影地点はおそらく台北、大稲埕にある土地の神を祀る城隍廟の祭りの様子だと思われます。パレードのようにさまざまな楽団や山車、道教の神が街を練り歩く様子が、街の一角の高い建物から撮影されているようです。画面の途中で登場する手足の長い人形は、「七爺八爺」といわれる神格です。画面の最後部には、廟で祈願する人びとの様子も映し出されています。


台北、廟の祭り2分類番号:P-12 上映時間:約3分
「台北、廟の祭り1」と同じく、台北の城隍廟の祭りの様子だと思われます。パレードが続き、ここにも、「七爺八爺」といわれる神格が登場します。 山車や幟、店の看板、人びとの服装などからは、日本統治下の台湾における都市の風俗の一端をうかがい知ることができます。





植民地下の台湾原住民(撮影者不明)

「台湾人内地見学旅行団」の踊り分類番号:Q-1 上映時間:約3分30秒
この映像には、日本らしき場所で、3人の原住民らしき男女が観衆の前で踊っている様子が映されています。服装や踊りの様子から、それらが見せ物用にあつらえられたものであることがうかがえます。これと同じ人物が同じ服装をして映った写真は、絵はがき(あるいは写真画か)としても残されています。絵はがきを所蔵する人類学者山路勝彦氏の研究によれば、絵はがきが発行されたのは1933年と推定され、彼らは「台湾人内地見学旅行団」という名目で博覧会などの際に民族芸能を披露するために連れてこられた人びとだということです。絵はがきの袋には、アミ語による数詞などの簡単な単語が記されていて、そのカタカナ表記は言語学的な発音表記による特殊な記号を用いたものです。山路氏は、これがしかるべき専門家によって提供された知識であろうことを指摘していますが、浅井がこの映像資料を所蔵していたことを加味すれば、その専門家が浅井その人であったという推測も成り立ちます。

「台湾人内地見学旅行団」の絵はがき(左)とその袋(右)
(山路勝彦氏所蔵)


「サクラグラフ 陸の人魚 紅頭嶼」 分類番号:Q-3 上映時間:約3分30秒
「サクラグラフ 陸の人魚 紅頭嶼」というテロップで始まるこの映像は、すでに編集済みの、一般向けに制作された台湾原住民ヤミについての紹介番組です。「紅頭嶼」というのは、ヤミの居住地である島の名で、現在は「蘭嶼」と呼ばれています。「サクラグラフ」とは、戦前に教育教材用にまとめられた16mm映画のシリーズの名で、その目録によれば、番組は「修身/読方/国史/地理/体育衛生」の各項目に分類されていました。この映像は、目録の上では「地理之部」に属するものです。撮影者、撮影年代とも不詳ですが、「サクラグラフ」目録の発行年が1933年だと推定されているので、この映像は、それよりも以前に撮影されたと考えられます。日本時代に台湾の原住民統治を担っていた警察が発行する機関雑誌には、1933年の7月に皇族が台湾に赴いた際に、伏見宮に対してこの映画番組を見せたという記録があります。台湾の植民地統治の業績の1つとして、台湾総督府は原住民統治・教化の成功を挙げることが常でしたが、この映画もそれを示す一環として来賓向けに用いられたのだと推測されます。映像に挿入されるテロップの内容や「やらせ」と思われる画面からは、植民者であった当時の日本人がヤミの人びとに対して抱いていたエキゾチシズムや好奇の視線を多分に感じとることができます。このような「未開性」を誇示することがまた、それを統治する側の「文明」を強調する道具立てにもなっていたのだと考えられるでしょう。けれど、そういった視線を差し引いても、画面のなかの人びとの整った服装や踊りなどからは、当時のヤミの人びとの生活の様子が十分に伝わってきます。その意味でも、この映像も貴重な記録といえるでしょう。この映像フィルムを浅井が所蔵していた経緯は不明ですが、ヤミ語研究で博士論文を執筆した浅井は、ヤミの事情について精通していたでしょうし、番組制作の過程で何らかの関与をしていたという推測はできるかもしれません。




浅井家の人びと

台北、廟の祭り2分類番号:Q-5 上映時間:約50秒 分類番号:P-9 上映時間:約4分20秒
浅井が家族と自らを撮影した映像です。場所は日本と考えられます。画面には浅井夫人や妹らの姿が収められています。